See this page in: Bulgarian, Dutch, French, Indonesian, Italian, Spanish 聖書には、矛盾していると思われる部分がたくさんあります。福音を例にとってみましょう。四つの福音は、十字架に掛けられた罪状書きについてそれぞれ異なった説明をしています。
矛盾を探している人たちは、次のように言うかもしれません。「ほら、聖書は間違いだらけではないか!」そして、聖書すべてを信頼できないものと決めつけてしまうのです。 しかしながら、神を信じる人たちは、何の問題もなく福音書の対観和合を信じています。「ユダヤ人の王ナザレ人のイエス。」と単に札に書かれていても矛盾ではありません。 [さらに詳しい内容についてはこちらをご覧ください:十字架に掛けられた札に刻まれたことばが四つの福音書の中で一致していないのはなぜでしょうか? 神をよりどころとする彼らの確信は、次の二つの真実に基づいています:1)「聖書はすべて、神の霊感によるもので、」(テモテへの手紙 第二3章16節);2)聖書には基本的に、高慢な者を「わなにかける」目的で、故意に矛盾と思われるような表現があります。神は、これらのことを「賢い者や知恵ある者」には「隠して」、「幼子たちに現してくださいました。」(ルカの福音書10章21節)、また、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選ばれたのです(コリント人への手紙 第一1章27節)。 神を受け入れない人が傲慢な心で福音に背向き、聖書に反することを望むのであれば、神はその人が自分の絞首台を作るのに十分な道具を与えてくださるのです。 この驚くべき本質はユダの王ゼデキヤの逮捕のところではっきりと示されています。預言者であったエレミヤは、ゼデキヤに神が彼をさばかれることを告げました。ゼデキヤ王は、必ず「バビロンの王の手に渡される」と知らされました。(エレミヤ書 32章4節)このことは、エレミヤ書39章5−7節 で確証されています。ゼデキヤ王は捕らえられ、ネブカデレザル王のもとに連れて行かれ、「足かせにつないで、バビロンに連れて行く」と記されています。 しかしながら、エゼキエル書12章13節で神ご自身が次のように警告されました。「わたしは彼をバビロンに連れて行く…しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう。」(イタリックは引用者)この時点で聖書の矛盾を指摘することができるでしょう!それは明らかに誤りです。王がバビロンに連れて行かれることは聖書の中で3度記されています。それにもかかわらず、別の箇所では、王がバビロンを見ることはないと記されています。連れて行かれた場所を見ることがないなどあり得るでしょうか?おかしな話です。これは、ゼデキヤ王の目が見えたらの話ですが。そうです。まさにその通りのことが起こりました。ゼデキヤ王はネブカデレザル王に会いました。目の前で息子たちは殺され、バビロニアに連れて行く前にバビロンの王は、ゼデキヤの両眼をえぐり出しました。」(エレミヤ書39章6、7節)。 [詳しいインフォーメーションが必要な方は、クリスチャン・アンサーズの聖書辞典のゼデキヤの箇所をご覧ください] これは、聖書の中に見られる数多くの「矛盾」の背後にある本質と言えるでしょう。 (ダビデが所有していた馬の数、イエスの復活の後、 最初に誰が墓に行ったか、などがあげられます) 神は、高慢な者、傲慢な者、独善的な者を敵の立場に立たせました。その者たちが御国の外で傲慢に立ち、聖書が信頼できないものであると考える根拠を理由に自分の罪深さを正当化するのなら、信仰に立ち、謙虚に従う者たちだけが御国に入れるように、神はいのちのとびらを降ろしてしまわれることに気づいていないことになります。 四つの福音の中で矛盾であると思われている事柄が福音の記者の間で記述を確認し合ったことがない、という事実を物語っていることに注意してみると面白いでしょう。 [クリスチャン・アンサーズの聖書辞典の福音の箇所をご覧ください] 矛盾であると思われている聖書の事柄に対する答え
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