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30分です。 |
初めにビデオを見ると、このページに書かれている内容がより理解できます。ビデオは30分です。 |
さあ、映画を見終えました。次の質問についてしばらく考えてみてください。あなたならどう答えるでしょうか? 死んだらあなたは、天国に行くと思いますか? |
地獄に行くことを自覚していたり、天国も地獄も無いと思っているならば、自分の置かれている状況をじっくり考えてみることを強くお勧めします。私たちは、地獄が実際の場所であること確信しています。その理由を確かめ、どんなことをしてでも地獄に行くことを避けたい、その理由を学んでください。この話題は、心地の良いものではないことは十分に承知しています。しかし、無視することは絶対にできないのです。
「あなたは天国に行きますか?」と問われて、「はい。」あるいは「そうだと思います。」と、ほとんどの人が答えますが、用心してください。悲しいことですが、この究極の目的地に関して間違った考えを持っている人は少なくありません。 次に示した理由で自分が天国に行くことができると勘違いしている人がほとんどです。 「基本的には良い人間だから。」 (60%) 自分がそれなりにまともな人間だと思っているのなら、それは神の基準ではなく、人間の基準と自分を比較した結果であることを忘れてはいけません。自分をヒットラーやチャールズ・マンソンと比較したら、確かにあなたは「良い」人間に思われます。しかし、自分をマザー・テレサと比べたらどうでしょうか。ほとんどの人がその中間に当てはまるはずです。 義人はひとりもいない、と聖書に記してあります。 (ローマ3章10節) あなたも私もです。マザー・テレサもカトリック教の聖徒たちもです。何世紀も前に神がこの世に送られた預言者でさえも良い人間とは見なされないのです。 (ルカ書18章18−20節) たった一つでも間違いを犯した人間は、正しく、聖く、また完全でかつ真実であられる神の御前に立つことはできないという事実をご存知ですか?そうなると問題が出てきます。つまり、どのようにして聖なる神と共に生きることができるのか、ということです。 「人に危害を加えたことは一度もありません」 (2% response) 本当に今まで誰も傷つけたことはありませんか?今までに他人に言ったことを考えてみましたか?理不尽に他人に腹を立ててもさばきを受けるに値する、とイエスは、マタイ5章21−22節で警告を与えています。 「十回を守ろうと努めました。」 (5%) まず、答える前に次の事に目を向けてください。 神は私に何を望まれているのでしょうか? さて、あなたは、本当に今まで一度も嘘をついたことが無いと言えるでしょうか?些細な罪の無い嘘さえついたことがないでしょうか?盗んだことも一度もありませんか?クリップ一つでも盗んだことはないですか?あなたは実際、姦淫を犯した事は無いでしょう。しかし、誰かに対して肉欲に燃えたなら、それは、神にとっては、あなたが姦淫を犯したも同様であると、イエスが言われたのを知っていますか? 今まで一度でも法律を破ったのであれば、既にあなたは法律違反者となります。自分に耳を傾けると、自分の良心が、間違いなく自分が法律違反者であると明かすでしょう。 「教会に通っています。」 (8%) 教会に行くことは良いことです。(参照 » なぜ、クリスチャンは教会に行くのでしょう? » どのようにして良い教会を見つける事ができるのでしょうか?) 教会に行きさえすれば、天国へのチケットを手に入れることができると考えているのであれば、 ローマ3章27節とエペソ2章8節の所をご覧なさい。ここには、全き公平な神から見て、私たちを義とするもの(教会に行って神から恩恵を得たりしようとすること)は、この地上には何一つ無い、とはっきり記されています。 当時、イエスは、断固とした言葉でパリサイ人について語られました。彼らは、義人の振りをして神からの恩恵を受けようとしました。しかし、イエスは、彼らを「まむしのすえたち」と呼ばれました。マタイ9章11節、12章39節、16章1−4節、ルカ7章39節、18章11節を参照。 「私は、神を信じています。」(10%) 神を信じるだけで天国に行くことができると思っているのかもしれませんが、次のことをよく考えてみてください。サタンと悪霊どもは神が現実に存在することを信じています。それでは、彼らも天国に入ることができるということになるでしょうか? (ヤコブ2章19節) ローマ1章20節もご覧ください。. 「精一杯のことをしてきました。」(15%) 今まで、あなたはできるだけ正しいことをしてきたのかもしれません。間違いもしたことでしょう。そして、もし神があなたの良い業と悪い業を秤にかけたなら、なんとか上手く切り抜けることを願っているのでしょう。またここで、問題に出くわしてしまいます。人生において、たった一度でも罪を犯したことがあるのであれば、神のおきてを破ったことになり、今もなお法律違反者となります。神は私たちの義を「汚れた敷物」と見なされるのです。神の神聖さを基準とするならば、私たちはそれからかなり程遠いのです!(参照 » どれだけ良ければ十分なのか?) 神のおきてを破った私たちはみな、聖なる神の御前では罪に定められるのです。 裁判官が悪人に対して正義を施行し、罰するのと同様に、完全に公正で,聖く、義であられる神は、罪を罰せなければならないのです。 その答えは何でしょうか? この世を後にする時、各々私たちは、さばきの日に神の御前に立ちます。そして、自分の人生の説明をすることになります。どんなに良い人間になろうと努めても、私たちの精一杯の努力は神の御前には「汚れた敷物」でしかないのです。神と私たちを引き離す罪が取り去られていないからです。 神は聖く、義であられる為に罪を罰しなければなりませが、愛に溢れ、慈悲深い神は私たちを罰することを望まれてはいません。 この問題を解決するため、神は、人の姿を取られ、神であられると同時に人にもなられたご自分のひとり子イエス・キリストを私たちの罪を贖うために送られたのです。
天国に入る唯一の方法はイエス・キリストを信じることです。なぜ、イエスはそれ程大切な存在なのでしょうか?それは、イエスがこの世で罪を一つも犯されなかったからです。全くの神であられ、同時に人でもあられたキリストは私たちと同様に誘惑は受けましたが、罪は犯されませんでした。 同じ罪人の分際である人間は、あなたの罰をその身に負って、神のさばきからあなたを自由の身にすることなど決してできないのです。 死の宣告を受けた私たちですが、2000年前、神が肉を取って人となられ、法廷に立ってくださいました。そして、私たちの罪をご自分に負い、私たちを贖ってくださいました。ちょうど、哀れみ深い裁判官が犯罪者を救うために自分のいのちを与えるとの同じように、イエス・キリストは、この世の罪をご自分に背負ってくださいました。正しい者が不正な者のために死んでくださったのです。 この賜物は、全く無償です。他の贈り物と同様、報酬でもなく受ける権利のあるものでもありません。 永遠のいのちである賜物は信仰によって受け取るものです。 自分で自分を救うことができないこと、私たちは自分の罪に対する神のさばきを受けて当然の身であることを自覚する時、信仰を持って神のもとに来ます。そして、自分の意志で神に従い、神に全てを委ねる時、イエス・キリストを信じ、罪の赦しと永遠のいのちをキリストおひとりにおいて確信するのです。 「恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれもほこることのないためです。」 今すぐ、永遠のいのちの賜物を受け取ることができます。 |
どのようにして救いの確認をすることができるのでしょうか? 答え |
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